ふたつの記事 その後1
オープンダイアローグについては原稿を書いている途中だが、ダイジェストみたいなことでも、やはり時間がかかる。
先日「ふたつの記事」のうち多田富雄の阿修羅像から派生して思い出したことを書いてみよう。
光瀬龍『百億の昼と千億の夜』、それをコミック化した萩尾望都の『百億の昼と千億の夜』を紹介した。
その時は光瀬龍の「あとがき」の阿修羅像への思いについてのみ書いた。だが本編もまた当然ながら肝心である。久しぶりに本を取り出し終章を読んだ。これは良書ともにである。単に漫画家下だけで内ので別の作品とも言える。しかし良書ともから、同じ話だから当然と言えば当然だが、圧倒的な時間の無限を表現しているのに、最近は少々心労が重なっており、どうも耐えられそうになかった。特に光瀬龍の原作では冒頭の波の動きが本当に永遠に続くかと思われた。こうだ、
「寄せてはかえし
寄せてはかえし
返しては寄せる海。」
確かに時間はこういうように続いてたのだろうし、これからも続いていくだろう。そしてまた空間も同じことだろう。時空というが時間も空間も実同じことをあらわしているのだから。
それにしても両署ともに圧倒的な宇宙あるいはまさしく世界の空間、時間ともにわたる果てしなさを知らしめてくれる。
本当ならばそういう空間、時間に抱かれて阿修羅王の冒険を、いや王だけでなくシツタータ、オリオナエ、ユダ、イエスの物語を真剣に楽しめるはずであるし、かつてはそうだった。ただ、今はダメだ。これは私の問題で作品の問題ではない。実は単に楽しみのためだけの冒険物語ではなく、世界のはじめとおわり、神、などなど考えさせてくれる物語だから、いま読むべきなのだが、もうしばらくは積ん読ことになりそうだ。
実はこの神、仏と言い換えることができるかもしれないのだが、最近読んだ『イスラームの論理』(中田考著、ちくま叢書、2016年5月刊)に書かれている神となにか絡んでくるところがあるように感じているから、なおさらなのだが、精神的なものから体調さえもよろしくなくなっているので、読むことができるようになったら改めて取り上げたい。
と、書きながら話は神あるいは仏のことにつながっていくのである。もちろん私の心の中での話で著者たちがそうであるというのではない。
辛い部分は多いのだが、これもまた前回とりあげた多田富雄、柳澤桂子につながっているのだ。
柳澤に『生きて死ぬ智慧』という『般若心経」の科学版訳というべきものがある。すべて粒子から世界はなっているという観点からの訳である。
そしてさらに彼女の『いのちの日記』へと続くのである。
(この項つづく)
20146/05/25 Biblio Kei
日々の断片 2016/0523
ひとむかし以上前、正確に言うと2000年5月1日から数年の間、ホームページを開設していた。
「K’s Happy Studio」というタイトルで、いまは知る人はいないだろうな。
その後もブログを書いたりしてサイト運営はしていたが、その時ほどの内容もなかったし、読者もそんなにはいなかった。
初めてのサイトはファンサイトであったから、しかも旬のテーマだったから幸せな日々を過ごせたのかもしれない。いまもその時にやりとりしたメールの断片、手紙などが残っていて、いまさら公開はしないけれど、死ぬまで手元に置いておくことになるだろう、と思っている。
さて、そのサイトでは毎日更新をモットーとしていて、もちろんサイトのテーマに関連したニュース記事が毎日あるわけではないので、結局は日記を毎日書くことを自分自身に義務づけていた。そのことにより毎日来てくれる人が出てきた。ほかにも掲示板を設けていたので、途中からは記事の執筆と掲示板への書き込み対応で、仕事から帰ってからなので、毎日午前2時頃までパソコンの前に座っていた。
ようやく本題。そのときの二月のタイトルが「日々の断片」であった。
忙しいときにはなかなか書けない、と言っていたのに、一時的にではあれ時間に余裕のある今、実は何も書けないという皮肉な状態にある。
確かにいくらかの記事は書いているが、とてもサイト運営しているとは言えない量だ。
しかし思うこと、感じることは色々とある。ただ、書けないだけである。まとまつた文章にならない。が、どこかで記録しておかないと、自分自身が忘れてしまう。他にもいろいろと悩みがあるのでこの数日は辛い日々を過ごしていた。いや今も過ごしている。苦し紛れに思いついたのが「日々の断片」である。毎日、日誌として、ということはしないが、まとまった記事がないときには、まさしく断片を記しておこうと思ったのである。
一番最初の記事にも書いたけれど、現在のテーマは「オープンダイアローグ」、「資本主義」、「イスラーム」がメインだが、その他にもいろいろとある。そして過去の書物、資料もいろいろとある。たぶん死ねばそのままゴミになることは目に見えている。いまさら全てを相手に格闘する知力、体力はない。ましてや時間がない。で、手当たり次第、思いつくまま、いろいろなことを「日々の断片」では書こうと思う。
書いたからと言って何になるものではない。誰かの役に立つとも思えない。そもそも読者がいるのか、という大問題がある。いつかは増えるかもしれない。が、そんな夢は夢として、現在の苦しさを少しでも緩和するために、苦しさを書くことにぶつけようと思う。
ジャンルは問わない。
なおタイトルは、日々の断片プラス日付、としていく。あとあとのためにキーワードはなんらかの形で設定しようとは思っている。
さて、今日はここまでだ。
修正も含めて実はちゃんとした記事はアップしたのだが、思い立ったときにスタートさせないとと決心し、第一号の駄文を記した。
2016/05/23 Biblio Kei
オープンダイアローグ その4 オープンダイアローグとは何か 03
では、続けよう。
1 オープンダイアローグの概略
ここでも同じように小見出しを並べ、強調がある場合、あるいは引用者が大切だと思う部分をその下に引用する。
<全体をざっくりつかんでみよう>
・拍子抜けするほどのシンプルさ
セイックラ教授はオープンダイアローグが「技法」や「治療プログラム」ではなく、「哲学」や「考え方」であることを繰り返し強調しています。
・即座にチームて‘会いに行く
治療対象は、最重度の統合失調症を含む多様なケースです
・トータルに見れば低コスト
・本人なしでは何も決めない
スタッフ限定のミーティングなど、はいっさいるりません。本人と家族、関係者ら全員の意向が表明されたのちに、治療の問題が話し合われます。
・「ケア」の文脈で考えてみたらど、うか
治寮すなわち「キュア」と考えるなら難しいことで、も、「ケアに限りなく近いキュア」と考えるなら、ありそうに思えてきませんか?
その意味でこの技法は一種の「治療のインフラ」と考えることもできるでしょう。
ならば問題は、「どんな対話をするか」に集約されます。
つまり技術や質の問題です。
<どんなルールで進められるのか>
・電話を受けたス夕、yフが責任者
・平等だが専門性は必要
ミーティングにはファシリテーターはいますが、対話を先導したり結論を導いたりするような「議長」や「司会者」はいません。
ちなみにファシリテーターとは、中立な立場を保ちながら折に触れて話し合いに介入し、議論がスムーズに進行するよう調整しながら、相互理解に向けて、議論を広げたり深めたりするような役割を負った人のこと指します。
これは最も重要な原則のひとつなので繰り返しますが、本人抜きて1まいかなる決定もなされません。
・薬物は「保険」
<リフレグティングとは何か>
・治療者たちを逆に観察する機会
・自分についての噂話を聞く仕掛け
「あなたはよくがんばっている」と言われるよりも、「あなたがすごくがんばっていると、○○さんが誉めてましたよ」と言われるほうがずっとうれしい。
そう感じる人は少なくないでしょう。説得や押しつけ抜きで、こちらの見解をしっかり聞いてもらう手法としても、リフレクテイングはよく考えられたやり方だと思います。
それゆえオープンダイアローグのゴールは、全員が合意に達することではありません。それぞれの異なった理解を、うまくつなぎ合わせ、共有することです。合意や結論は、この過程から一種の“副産物”のようにしてもたらされるのです。
(続く)
2016/05/23 Biblio Kei
オープンダイアローグ その3 オープンダイアローグとは何か 02
はじめに書誌を記しておこう。
書 名:『オープンダイアローグとは何か』
発 行:2015年7月1日第1版第1 刷。
手元にあるのは2015年7月15日第1版第2刷。
著・訳:斎藤 環
発行所:株式会社医学書院。
目次を第2回に記した。この目次に従って購読することとしたい。
私自身が素人なのでわからないことばかりではあるのだが、ごく普通に読書するのと同様、気になったところ、要点を抜き書きすることですすめていこうと思う。
実は著者の記述自体が適切な要約になっているところが多いので、多くの場合にはそれを引用していくことだけでも理解できるのではないかと思う。
簡単に言えば各人が同書を読むのがベストなのだが、私自身の勉強を兼ねているので、自分自身の理解も進まないので、やはりノートを取りながらという感覚で進めたい。
冒頭は「はじめに それは“本物”だろうか?」(9ページ~18ページ)
要約すれば、著者がオープンダイアローグという治療法ことを知り、その説明に半信半疑になりながらも色々と資料を集め、検討していくなかで、その技術(治療法)に納得していく過程が述べられているのである。いまはで伝道師となっているように思われる。
ではそれはどのようにか、を知るために小見出しを順に並べておこう。
そして著者が強調している文がある場合にはそれを小見出しに続けて引用する。記述のなかの一部分だから、わかりにくい箇所があるかもしれないが、理由があって強調するのだから、ヒントとして受け取って欲しい。
では、どうぞ。
・対話のカ? 薬を使わない? 反精神医学?
多くの精神科医が、統合失調症の診断と治療に、みずからの存在意義を賭けてきたという歴史的経緯もあります。それが薬物を使わずに治ると言われでも、にわかには信じられません。
・衝撃の治療成績
映画に登場する病院スタッフたちが語る内容は、実に驚くべきものでした。
・そして論文の説得カ
経験を積んだ専門家ほど納得する
結論から言いましょう。いまマ私は、すっかりオープンダイアローグに魅了されてしまっています。ここには確実に、精神医療の新しい可能性があります
・「いちばん闘いているときだからね」
先生(引用者:精神科医の神田橋 條治)の答えはきわめて明快でした。
「ああ、それは効くだろうね。いちばん“聞いて”いるときだからね」
・経験を積んだ専門家ほど納得する
家族豪法、精神療法、グループセラピー、ケースワークといった多領域にわたる知見や奥義を統合したような治療法なのです。
・フィンランドでは公費医療の対象
何のエピデンスもない「治療プログラム」が、フィンランドにおいて公費負担 医療の支援を受けられるとは考えにくいように思います。
・「有効かどうか」ではなく「なぜ有効か
説得的だったのは、セイックラ教授らによる理論構築の手堅さです。彼らはもはや「オープンダイアローグが有効かどうか」を問題にしていません。彼らの調査研究はすでおに「なぜオープンダイアローグがこれほど有効なのかJという立場からなされています。
・ここにはとんでもない鉱脈が・. ..
「私がオープンダイアローグに惚れ込んだ理由は・・・要は私の臨床家としての 直感です。「オープンダイアローグj という単語を聞いた瞬間から、直感がずっと噴いているのです。「ここにはとんでもない鉱脈がある」と。
以上のように経緯を述べた上で、著者によるオープンダイアローグについての解説が次のように述べられる。
引用は同書018頁から。
「オープンダイアローグの概略を示し、続いて実践の背景にある考え方、思想を解説します。そして、症例などを引用しながら、具体的な手法について解説をしていく予定です。概略→思想→マニュアノレという、やや変則的な流れですが、おそらくオープンダイアローグに関しては、この順番のほうが頭に入りやすいのではないかと判断」したためである。
では、次回は斎藤環による説明に入る。
2016/05/23 Biblio Kei
ふたつの新聞記事
先日から古い資料などを整理していている。
整理とは見なおしでもあるので、気になったものはいやでも詳しく見る、あるいは読むことになる。
二つの記事が気になったので、概要だけを記しておく。
整理の対象はある時期に自分自身で選択した ものなので、どれもその時を反映している。大半は引き続いて手元に置くことになるのだろうが、私に残された時間はそんなに長くはないので、改めて「いま」という時点で選んだものを順次紹介していきたいと思う。
たぶん、それは、人に知らせるとというよりも、自分自身を知って欲しいという欲から出るものなのだが、それであっても少しは人に何かの参考になって欲しいと願っている。
なお私の記事では原則として敬称は省略している。これは決して敬意をもつていないのではありません、念のため。
前置きがながくなったが、二つの記事はいずれも今から7年前、自分自身は不遇であった時期、2009年5月20日付の朝日新聞のものである。
実は同じ「文化」面に載っていた。
ひとつは「汚染される人間生を予言 英SF作家J・G・バラードを悼む」。書いているのは映画評論家・翻訳家 柳下毅一郎である。
簡単に書く。
バラードは一時期好きで手に入る本は読んでいた。たぶんとしか言えないが、いまも好きな作家のひとりである。終末世界を描いた数々の作品はいかにも現実に起こりそうな未来である。映画化されたものも数点あり、現在は「ハイ・ライズ」が映画制作中と聞く。
ジャンルという点からいえば、もともとはSFというより幻想を好んでいたたため、このジャンルではまずレイ・ブラッドベリからスタートした。
ある時にバラードの名前を耳にしてその後は様々な作品を読むことになった。すべてではないけれど大体の作品は読んだと思う。
なかなか難しいころもあるのだが、それでも描かれている終末世界は終末にもかかわらず、いや終末だからこそと言うべきか、魅力的である。この先に実際に実現するだろう世界を予言していると感じられるからかもしれない。
記事の最後の部分を引用しておく。
「バラードはテクノロジーと人間の関係について、それまでどんな作家も書かなかったことを書いたのだ。バラードがしばしば現代の予言者と呼ばれたのは、誰よりも早く的確に現代社会の生のあり方を指摘してのけたからである。それこそが二十世紀最大の作家が残したものなのだ。」
もううひとつの記事にうつる。「私の収穫Ⅰ 平和の神」というタイトルで、書いているのは免疫学者 多田富雄である。
その当時東京国立博物館で開催されていた「国宝 阿修羅展」で「阿修羅像」を観た感想が書かれている。
古都奈良(!)に住むものにとっては比較的容易に拝観できるのだが、その他の地に住む人にとっては首都と言えども難しいものではある。
多田富雄は柳澤桂子との往復書簡集『露の身なれど』で知り、いくらかの著作を目にしていた。
ここでは荒ぶる破壊の神阿修羅が優しい少年の姿となっている「阿修羅像」に平和と寛容の精神をみてとっていると書かれている。
あのどこか悲しみを帯びた表情はそのように思わせるものがあり、そしてとても美しい。戦い続けなければならない存在であるからこそ、一瞬見せた優しさなのかもしれない。あるいは実は心の中は常に悲しみに満たされているのかもしれない。
この戦い続ける神としての阿修羅をテーマにした物語がある。光瀬龍『百億の昼と千億の夜』である。はじめはコミック化された週刊誌で読んだと思う。コミックの作者は萩尾望都である。その後光瀬龍の原作を読み、そしてまたコミック版を読んだ。
実に印象深い文章である。現在市販されているものにはこの記事は載って いない。 「あとがきにかえて」の後半は阿修羅像について書いている。すべてがいいので全部を引用したいのだが長くなるので一部にとどめる。
「私は興福寺の阿修羅像が大好きです。純粋に造形的な興味もさることながら、この増が多くの人に愛されるのはその愁いを含んだあどけない顔立ちにあるのでしょう。(中略)興福寺の阿修羅像のあの憂愁に閉ざされた眉をごらんなさい。泣き出すこともできず、自嘲の笑いと手もなく、絶望を超えた無効からひたすらにみつめるまなざしは、絶対者に向かって”なぜ?”と問いかけているのです。そのひとみの奧には、ひそかに愛した一人の少女の面影もすでになく、おのれの命運を掌握するものへのつきることのない問いかけだけがあるのです。おくには(中略)興福寺の阿修羅王像は私に幾つかの物語をあたえてくれました。そしてこれからも新しい物語を与えてくれるでしょう。今、つめてい雨が降っています。明日は雪になるかもしれませんが、また阿修羅王像に会いにいってこようかと思います。」
※この記事は2016年4月12日の記事を修正したものです。
※当初の記事は重複するので削除しています。
Biblio Kei 2016/05/22
オープンダイアローグ その2 オープンダイアローグとは何か 01
実際に私が進んだように書き進めてみようと思う。時間はかかるのだが、理解を深めていくためには、これは自分自身に対して言っているのだが、必要な時間だと思う。それに学習ノートと言ったこともある。
まず前回ご紹介した『オープンダイアローグとは何か』を読んだ。
本書の目次をみてみよう。
第1部 解説 オープンダイアローグとは何か
はじめに それは“本物”だろうか?
1 オープンダイアローグの概略
全体をざっくりつかんでみよう
どんなルールで進められるのか
リフレクティングとは何か
2 オープンダイアローグの理論
ミクロポリティクス
詩学1 不確実性への耐性
詩学2 対話主義
3 オープンダイアローグの臨床
それはどんな経験だったのか
ミーティングの実際
実践のための12項目
4 オープンダイアローグとその周辺
ケロプダス病院の実情
「べてるの家」との類似性
5 本書に収録した論文について
おわりに 私たちに「不確かさへの耐性」はあるか
第2部 実践者たちによる厳選論文 オープンダイアローグの実際
1 精神病急性期へのオープンダイアローグによるアプローチ
―その詩学とミクロポリティクス
The Open Dialogue Approach to Acute Psychosis:
Its Poetics and Micropolitics.
2 精神病的な危機においてオープンダイアローグの
成否を分けるもの
―家庭内暴力の事例から
Open Dialogues with Good and Poor Outcomes for
Psychotic Crises:
Examples from Families with Violence.
3 治療的な会話においては、何が癒やす要素となるのだろうか
―愛を体現するものとしての対話
Healing Elements of Therapeutic Conversation:
Dialogue as an Embodiment of Love
実は斎藤環が書いている第1部の「解説 オープンダアローグとは何か」を読むだけで全部がわかったような気になる。わかりやすく、かつ、 詳しく書かれている。
優れた解説だと私は思う。でも、そこで止まったらわかったつもりで終了ということになる。どんなことが起こっているかという知的な情報を得るためにだけ、なら良いだろうが、第1回で書いたようにいろいろなシーンへの応用を私は考えているのだから、さらに詳しく読み進め、理解する必要がある。
私は、そうしよう、と考えている。
※この記事は2016/04/04のものを修正して再掲したものである。
2016/05/22 Biblio Kei
オープンダイアローグ その1
私がいま気になっていることは"資本主義"、"イスラーム"などいろいろとあるのだが、一番のテーマといえば"オープンダイアローグ"である。
はじめに、どこからここにたどりついたのだろうか?
ひとつめのポイント。
自分自身ではないのだが、十年あまりにわたって"心療内科"というものにかかわる事情があった。基本的に診察、薬という決まったことの繰り返しであるが、はたして薬というのはどうなのかな、という疑問があった。
私自身が薬が苦手ということもあるかもしれない。だからよけいにそう思ったのかもしれない。副作用みたいなものが生じることも事実なので、できる限り避けられないものか、と考えていた。
薬なしで問題が発生していたのだから、薬の処方が必要となったのだが、先行きの見通しがつかないなかで、改善とゆり戻しの繰り返しであった。改善策をいろいろと考えてみたものの、状況が大きく変わることはなかった。
この点に関しては2015年秋から変化がみられることとなったが、その要因もふくめて、個人的な事情に関わるのでここでは取り上げない。
ふたつめ。
二つの事例があり、二つともが約十年前のことである。
まずは統合失調症。ネットを通じての知人のパートナーが発症し、最終的には離婚にいたったのだが、その最終局面で私が二人の離婚を後押しすることとなった。病気のことをよく知りもしないのにそうしたのだが、当人たちが了解していたとはいうものの、おそらく今だったら決して後押しはしなかっただろうと思う。
離婚にいたるには病気そのものだけでなく、自宅の火災などなどの要因が絡んでいたので、結果としてではあるが、もっと違う選択もありえたのではないかと、いまでは思っている。
次にはうつ病の例。これもまたネット上経由で面識を得ることになった知人の例。
彼のミュージシャンである子息が自宅マンションの上の階から飛び降り自殺したことがあった。飛び降りた、ちょうどその時に、私は知人と電話で話をしていたという、みごとに物語のようなことがあった。子息はうつ病であったとのことをその時に知った。あとで聞くと知人自身もうつ病であったということであった。
これらのことがあった時点では私にとって精神病と言われるものはごく普通の人と同じような位置づけであった、つまり自分には関わりのない遠いことであったように思う。
みっつめ。
直接に関連があるということではないのだが、先日まで大学のキャリアセンターという部署、簡単に言えば学生を就職させる部署、昔の名前では就職課に在籍していて、いろいろな問題を抱えて困っている学生と接する機会があった。それ以外の学生でも、いわゆるシューカツがもたらすプレッシャーによって半病人と感じられたことが多くあった。型どおりの一律な指導ではなく個々の学生に応じた対応を考えていたものの、なかなか対処するのは難しいと感じていた。
指導する側も決して専門的なトレーニングを受けていたわけではなく、問題そのものの認識が出来ていないとさえ思えることも多いと私には思えた。 何か方法があるのでは、と考えていた。しかし大半の人は「仕事」として、その対象としてしかみていないな、と思った。今はその職場を離れているが、やはり気になるテーマのひとつではある。
そのような状態のなかにいるとき"オープンダイアログ"と出会うこととなった。
正確にいうならば2015年8月15日、朝日新聞に『オープンダイアローグとは何か』斎藤環<著・訳>についての書評が載った。
書評を書いたのは大竹昭子(作家)で書評の中の次に引用するふたつのフレーズにひらめいた(!)のである。
以下引用する。
■対話により個から問題を解き放って、みんなが感じ取れるレベルに昇華するよう場の力に恃(たの)むのだ。
■症状が他者と分かちあわれ人間全体の事象として受け止められたとき、患者のなかに安心感が芽生え、結果として症状が消える。その鍵が言葉にあるという考え方は大きな励ましだ。希望を抱きにくい時代への希望の書であり、教育や介護、ワークショップやトークショーなどにも大きなヒントになるだろう
「対話により」というところや「他社と分かちあわれ・・・患者の中に安心感」というところ、特に最後の部分、要約して言えばいろいろな局面、教育や介護などに、もちろんもっと多くの場面で応用が出来る、というのが私にとつては大きなヒントとなったのである。
どのようにして、どんなシーンに対して、ということはそれ以後考えているが、まだ具体的な形はとっていない。ムードだけでは何も出来ないのはいうまでもない。
肝心のオープンダイアロ-グとはどのようなものであるか、それを知らなければならないと考え、勉強をしかけたところである。
いうなれば学習ノートとしてブログを書いていくこととする。
※2016年3月に書いた記事を修正し再掲することとした。
※記事を書いて約二ヶ月が経ち、いろいろと経験は増えているものの、なかなか記事が書けないでいる。
2016/05/22 BIblio Kei